現状打破へ!FC岐阜誕生!!
「柱」を失い、“空白の時代”を過ごすこととなった岐阜の社会人サッカー。空白の時代は選手からモチベーションを奪い取っていった。しかし、このような状態が続けば、岐阜サッカー界全体の空洞化を招き、取り返しのつかないことになりかねないのは、誰の目から見ても明らかだった。この状況に松原郁夫岐阜県サッカー協会理事長は「高校までは力がついてきているのに、肝心の大学、社会人がしっかりしていないのは構造的に良くない。それに東海社会人リーグなのに岐阜県勢がいないこと自体おかしい」と抜本的な構造改革に乗り出した。—「ピラミッドの頂点となる存在、岐阜サッカー界の柱となる存在がないのなら、自分たちで作ってしまおう」—この意思が大きなうねりとなり、一つの新しいクラブチームを誕生させた。2001年4月、県サッカー協会が中心となって県内を中心に選手を集め、ついに「FC岐阜」が誕生した。
「地域密着、郷土愛の象徴へ」運命の歯車が回りだす
岐阜県1部リーグに参入したFC岐阜は、初年度でいきなり2位に輝き、幸先のいいスタートを切ると、2002年、新たな動きが生まれた岐阜サッカー界にひとつの転機が訪れた。第80回全国高校サッカー選手権大会において、片桐淳至(現・FC岐阜)、荻晃太(現・神戸)を擁した岐阜工が見事準優勝に輝くという快挙を成し遂げたのだ。国見との決勝戦が行われた東京・国立競技場には、首都圏に在住する岐阜県人会の人達が多数集結し、郷土のチームに熱い声援を送り、この快挙を我事のように喜んだ。その様子に松原氏は「今まで全く気付かなかったけど、東京の中にも故郷を愛するノスタルジーが沢山あった。やはり郷土への愛情は消えないんですね」と岐阜工の躍進で一気に表面化した人々の郷土愛に大きな驚きと衝撃を受けた。松原氏はこの衝撃と今の岐阜サッカー界の現状を照らし合わせ、「ならばFC岐阜をその郷土愛の象徴となるようなチームにしよう」(松原氏)と考え、これをきっかけに松原氏を中心とした岐阜県サッカー協会は、FC岐阜にさらなる力を加えた。—「県民に広く愛される存在として岐阜県民の誇りと希望の象徴となろう」—チーム誕生に遅れること1年、クラブ経営の基盤を作るべく、運営母体の使命を担ったスティックルバック・スポーツクラブ(SSC)が2002年7月、県サッカー協会、岐阜経済大学教職員、学生、民間有志を中心に結成された。