幼いころは遊びに過ぎなかったサッカーが、いつしか競技になり、そして仕事になった
そんな自信家の平岡でも、プロのレベルの高さには驚いた。体格も自分より大きな選手ばかり。技術も目線も見上げるばかりの中で、しかし、自分を冷静に見つめる目は失っていなかった。「今までと同じにやっていても駄目。FWとして、スピードなら勝てる」。もう一つ、平岡の心に火を付けたのは、身近にいるライバルたち。「同じ年の奴らには負けられない」。持久走なら1秒でも速く、筋トレなら1キロでも重く−。幼少期から才能で勝負してきた平岡にとって、本格的な肉体トレーニングは初めての経験。地道な練習も、自分の選んだ道だと納得して、続けること三年。
そして迎えた一九九四年。鹿島戦の後半から途中出場、ついにトップのピッチに立った。思い出を聞くと「ジーコ(現日本代表監督)がいたよ」。え、それだけ?「うーん、そんなにサテライトと変わらないじゃん、と思ったね」。
その後の活躍は、言うまでもないだろう。ストイックなまでに鍛えた体で、通算十三年。浮き沈みの激しいプロの世界で、これだけ長くチームに必要とされる選手は、ほんの一握りだ。
日本代表に選ばれることはなかったが、実は一度、チャンスがあったという。「中学生のとき、監督に『ジュニアユースに行ってこい』と言われたんだけれど、合宿地が千葉。行くのが面倒くさくて『いいです』と断っちゃった」。そんな脱力感が、平岡の魅力の一つでもある。
幼いころは遊びに過ぎなかったサッカーが、いつしか競技になり、そして仕事になった。今はサッカーと出会えたことに感謝している。「良い人生だと思う。サッカーで美味しいものが食べられたし、良い服も買えた。良い車にも乗れた。たまたまサッカーでプロになって、やりたいことは思う存分できた」。でも、それがいつまでも続かないのも分かっていた。「プロサッカー選手でいられる時間は、人生にとってはほんの少しの時間。大切なのは引退してから。ずっとそう思っていた」。だから、サッカーで稼いだ金は「ほとんどすべて自分に注いだ」。自分を高めるための投資を惜しまなかった。