FC岐阜誕生から現在までの軌跡

ピラミッドの頂点の消滅が招いた「悪しき群雄割拠」

1993年、日本に初のプロサッカーリーグ・Jリーグが誕生し、日本全国に一大サッカーブームを巻き起こした。ブームそのものは長続きはしなかったが、全国にまかれたサッカーの種は着実に各地域に浸透していった。岐阜県も例外でなく、Jリーグの下部リーグとなるJFL(当時はJ2はなかった)で活躍していた西濃運輸という社会人チームがあった。西濃運輸サッカー部は岐阜を代表するチームとして、長く岐阜サッカー界の頂点に君臨していた。
だが、全国各地でサッカー文化の浸透が進んでいるのに逆行するかのように、97年、岐阜のサッカー界に激震が走った—。西濃運輸サッカー部が長引く不況の影響を受け、企業側が廃部を決定。これが岐阜のサッカー界に与えた影響はとてつもなく大きかった。岐阜のサッカー界の頂点に君臨していたチームの突然の消滅—。これは岐阜の社会人サッカー界において、県内の優秀な人材を吸い上げる「母体」と、1度県外に流れた人材が全国各地で経験を積み、再び岐阜に帰ってくる為の「受け皿」をなくすことに繋がった。つまり、ピラミッドの頂点が無くなった状態は、岐阜のサッカー選手達に「岐阜にいては高校から先がない」「色んな経験を積んで、地元に戻ろうとしてもプレーするチームが無い」という現実を生み出してしまったのだ。

これにより優秀な人材の県外流出が一気に加速し、社会人サッカーのレベルが軒並み低下するという事態を招き、岐阜の社会人サッカー界は「悪しき群雄割拠」の時代に突入した。

止められない才能達の県外流出

サッカーを志す者達が、そのまま生まれ育った岐阜でサッカーをするには「限界」があるという状況となってしまった。岐阜には岐阜ヴァーモス、ジュベントゥージ、ジョカトーレ関等といったジュニアユース世代では全国に誇れるクラブチームが沢山ある。高校も岐阜工を中心に強豪と呼ばれるチームがある。しかし、そこから先を目指そうとすると、それを実現できるチームがない。結局、子供達は中学卒業、高校卒業の段階で県外進出という難しい選択を迫られ、大人達はいつまでたっても地元に戻れない。一度勢いを強めた優秀なタレントの県外流出は、時が経つにつれ次第にその激しさを増していった。特にジュニアユース世代の流出は深刻なものとなった。多くは同じ東海地区のグランパスユース、ジュビロユースなどに大量に流出。これは岐阜サッカー界の地盤沈下に繋がり、それに比例するように岐阜の社会人チームは東海社会人リーグから姿を消し、県内リーグは衰退の一途を辿っていった。

北村選手の写真